大航海時代の技術革新による世界市場の誕生(2)

ポルトガルにおける帆船航海の技術革新

コロンブスが1492年の西インド諸島に到達し、ヨーロッパと南北アメリカ大陸の間に永続的な航路を確立した。背景には、3~4本マストの帆船への進化、地中海と北ヨーロッパの優れた造船技術の伝統が組み合わさったこと、さらにアストロラーベ、六分儀、羅針盤といった航海器具をとりいれることなど航海技術の発達が挙げられる。

三角帆を用いれば、帆の向きを変えることで進路の細かい調整が可能となり、操船がより容易となった。羅針盤によって、沖合での距離の短い航海を可能とした。陸地のランドマークやスカイラインを確認しながら海岸線に沿って航海する航法はなくなり、天体観測ができなくとも航海は可能となった。航海の経験の蓄積は、航路や地形、港湾に関する知識の蓄積につながった。それらの知識が航海図や航海誌の作成に生かされ、確実な航海が可能となったのである。

国土の陸地部分をスペインに取り囲まれ、大西洋に面した海岸線と数々の良港をもつポルトガルでは、人々が早くから海へ乗り出し、西アフリカ圏や西大西洋の島々への航海を経験し、熟練した船乗りを擁し、漁業にも力を入れていた。小国ポルトガルが一時期大航海時代をけん引する海洋国家にまで成長したのは、王子エンリケの貢献による部分が大きい。国王ジョアン一世の王子エンリケ(1393-1460)は航海王子ともいわれ、探検家や航海者のパトロンとして探検・航海事業を奨励した。彼は国土南端のザグレス岬に研究機関を設け、船舶の設計や航海技術、海図の作成や探検、天文学など海事にまつわる事柄を広く研究する体制も整えたのである。

エンリケ自身はインド到達という快挙を耳にすることなく生涯を終えたが、航海に関する知識の増大と技術向上は、ポルトガルがアフリカ西岸など大西洋で勢力を拡大していくうえで大きな寄与となった。インド、カリカットに到着したヴァスコ・ダ・ガマ、スペイン艦隊を率いて世界周航を成し遂げたマゼランもポルトガル人である。

大航海時代以前のヨーロッパにおける主要な貿易は、地中海周辺とバルト海を結ぶものが中心である、この地中海とバルト海の交流の中から出来上がってきたのが、大航海時代の立役者であるカラック船である。カラックは3~4本マストを備えた船で、大西洋の航海用にポルトガル人によって開発され、16世紀に大西洋貿易で広く用いられた船であった。 当時の造船技術の一つの到達点をしめしていた。

このタイプの船は北欧の四角い帆を特色とする船(コグ)と地中海のタテ帆の船(ラテーン)とが、相互に影響を与えてできた帆船で、基本的には三角マストであった。真ん中のメイン・マストには四角い帆が張られ、これが主要な推進力を生み出し、前マストは順風の時に針路を安定させるためのもの、後ろマストは操船用のもので、ともに三角帆であった。船体はずんぐりとしており、船体の縦と横幅の比率が三対一くらいで、スピードは遅く、喫水が深く、そのために座礁しやすかったが、長距離の航海には向いていた。コロンブス、マゼランはカラック船を使って長い航海を乗り切った。

ポルトガル人は大型の船を建造するのを好んだが、そうした深い船体の船は探検には向かなかったこともあり、ヴァスコ・ダ・ガマはカラベルの小型船3隻と、もうひとまわり小型の補給船でインド航海探検を行った。カラベル船はポルトガル人によるもうひとつの発明品であった。

ヨーロッパ・アジア交易は、大航海時代以降、オランダ、イギリスによる東インド会社が設立され、交易が盛んになるが、技術面では東ンド貿易船はカラック船に細かい改良が加えられたもので大きな変化はなかった。ただし船体は次第に大きくなる傾向があった。15世紀初頭200トン(コロンブスのサンタマリア号233トン)、18世紀初め400トンが標準、18世紀末には1000トンを超える。帆船は大航海時代以来、1830年台にアメリカでクリッパー船が出現するまで、基本的には長い停滞期に陥っていたといわれている。

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