2011/10/02/(Sun)
栃木県小山市 賃貸アパート グリーンハイツ周辺情報 吉野家・ミニストップ [アパート情報]
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栃木県小山市 賃貸アパート グリーンハイツ周辺情報 「ザ・ダイソー」 [アパート情報]
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2011/09/17/(Sat)
中村八幡宮例大祭 [小山市情報]
中村八幡宮の例大祭が斎行されます。古式ゆかしく行われる恒例行事の流鏑馬は、元文元年(1736年)に当時の伊達藩主・伊達吉村が参勤交代の時、この神事に神馬を奉納したことから、例大祭で若者が弓を競ったのが始まりといわれています。
2011年9月18日 8:30〜、流鏑馬12:00〜
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ユネスコ無形文化遺産「結城紬」 [小山市情報]
結城紬は、小山市の東部、鬼怒川に面した地域を中心に生産されている高級絹織物であり、下野市、茨城県結城市でも生産されています。
すべて手作業による工程を経て完成される結城紬は、その柔らかな風合いと独特の渋みがあり、いつまでも飽きのこない上品な雰囲気を漂わせています。
(小山市ホームページより)
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2011/09/09/(Fri)
小山評定 (小山城址公園) [小山市情報]
アパートから徒歩10分の小山城址公園にちなんだ「小山評定」についてです。
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慶長 3年(1598)、豊臣秀吉が没して間もなく、家康公と石田三成らの間には徐々に不穏な空気が漂い始め、その頃、会津の上杉景勝は密かに三成と気脈を通じて軍備増強に努めていた。上方にいた家康公は再三にわたり上洛しての釈明を求めたが、景勝は拒否。これに対して慶長 5年(1600) 6月18日、家康公は上杉景勝を討つために軍を率いて会津へと向かうことになった。ところが、家康公が下向して間もなく、上方の情勢が一転、三成を中心に家康公討伐計画が急速に進められた。
このような情勢の中、家康公は 7月21日、上杉討伐のために江戸城を出発した。その際に軍を前軍と後軍に分けて出発し、24日には家康公の3男で、のちに2代将軍となる秀忠の前軍が宇都宮に到着し、家康公が率いる後軍も小山に到着した。この時に家康公は伏見にあった家臣の鳥居元忠からの急使により上方で三成が家康公打倒の兵を挙げたことを知ったという。翌25日には、かつて小山氏の居城であった小山城(祇園城)内の南の領域である須賀神社境内に、三間四方の仮御殿を急造して軍議が開かれることとなったが、家康公がこの小山に本陣を置いたのは、源頼朝が奥州に出陣した際に小山に軍営を置いた吉例に従ったためともいわれている。
軍議には家康公と秀忠を中心に、本多忠勝、本多正信、井伊直政ら家康公の家臣の他、家康公の上杉征伐に従っていた、福島正則、山内一豊、黒田長政、浅野幸長、細川忠興、加藤嘉明、蜂須賀至鎮らの豊臣恩顧の諸将が集まった。この軍議で家康公は諸将に、このまま会津に向かうか、引き返して三成と戦うか、それとも三成に味方をするかと意向を聞いたという。大坂に妻子を残してきた諸将の間には動揺が広がったといわれるが、評定中、福島正則が人質を捨てても家康公の先鋒として西上すべきであると進言し、又、山内一豊の発議によって東海道に城や領地を持つ大名たちがこれらを明け渡すこととなり、家康公への協力を誓った。こうして軍議は家康公の期待通り、会津の上杉討伐を中止し、西上して三成と戦うことに決まった。これが「小山評定」と称されるものである。
この軍議以後も家康公はしばらく小山に滞在して情報の収集や上杉勢への牽制、その後の事を考えての工作などを行っており、8月 4日早朝、家康公は小山を発ち江戸へと向かった。そして、9月15日、家康公率いる東軍は、関ヶ原合戦において勝利することになる。現在、小山評定に関連するものといえば、小山市役所の敷地内に碑が建つのみであるが、歴史的に重要な場所であるといえる。
その後、この吉例にならって元和 9年(1623)頃に、2代将軍秀忠により、この地には徳川将軍家の日光東照宮社参の際の休憩・宿泊施設としての日光道中12ヶ所の御殿の 1つ、小山御殿が造営された。小山御殿は周囲に堀を廻らし、土塁が二重に築かれ、敷地内には16ヶ所に御番所が設けられるといった厳重な配置になっていたという。将軍家による日光東照宮社参は寛文 3年(1663)に 4代将軍家綱が行った以降、8代将軍吉宗が享保13年(1728)に再開するまで財政難のために中断してしまうが、この間に大風によって御殿の建物の一部が壊れてしまったこともあり、小山御殿は天和 2年(1682)に古河藩によって解体されてしまった。御殿跡は現在、小山市役所北側の小山御殿広場となり、空堀の遺構を見ることができる。
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