モラルの資源

『アジア史概観』宮崎市定

自然を相手にするから無理せず、功をあせらず、名を求めず、困苦に耐え、運命に忍従するのが徳川三百年の間に培われたきた百姓のモラルであったが、歴代の歴史はこれを食い潰して、別の無駄なエネルギーに変形し発散させてしまうように導いてきた。

自然の資源の少ない日本においては、モラルの資源を愛護することを知らなければ、表面的にはどんなに経済成長を遂げようとも、見かけだおしのその繁栄はけっして長くつづくものではない。

いわゆる経済の高度成長も、短期間で達成できたものは、また短期間で失いやすいと覚悟しなければならない。

全体を見る眼

『地中海』フェルナン・ブローデル

最初はほとんど動かない歴史を問題にする。つまり人間を取り囲む環境との関係の歴史である。ゆっくりと流れ、ゆっくりと変化し、しばしば回帰が繰り返され、絶えず循環しているような歴史である。

この動かない歴史のうえに緩慢なリズムを持つ歴史が姿をあらわす。社会の歴史と言っておきたい。つまりさまざまな人間集団の歴史であり、再編成の歴史である。

最後に伝統的な歴史を扱う。出来事の歴史である。つまり歴史の渦潮がその協力な運動によって引き起こす表面の動揺であり、波立ちである。短く、急であり、神経質な揺れを持つ歴史である。

海運業界 規模の経済の追求

『コンテナ物語』マルク・レビンソン

1970年代後半の海運産業は、必死で規模を追い求めていた。船が大きくなればコンテナ輸送コストは下がる。港が大きくクレーンが協力になれば、荷役コストは下がる。70年代初めに主流だった20’コンテナはすでに40’コンテナに取って代わられ、荷役時間も船の船舶時間も大幅に短縮されていた。こうしてコストが削減されれば、その分を有効な投資に回すこともできる。これは好循環といってよいだろう。

コンテナ1個当たりのコストが下がれば運賃を下げるころができ、運賃が下がればたくさんの貨物を集荷できる。そうなれば単位コストはますますさがる、という図式である。コンテナ輸送は、規模の経済がモノを言う産業の代表格だった。

コンテナ時代が到来すると弱小企業に生き残る余地はなくなった。・・貨物が多いほど固定費を分散できるからだ。事業範囲を広げれば広げるほど、たくさんの貨物、たくさんのコンテナを確保できる。それにネットワークを拡大すれば、グローバル企業を顧客に抱えるチャンスが増えるという大きなメリットもあった。

海上コンテナ輸送とグローバリゼーション

『コンテナ物語』マルク・レビンソン

経済活動は国境を軽々と超えて世界に広がったのである。輸送コストが低下するに従い、生産地も人件費の高い国から低い国へとシフトする。この流れは、あらゆる国の賃金が同一水準に収斂するまで続くだろう。

コンテナ技術が運賃下落に大きな役割を果たしたことは確かだといえるだろう。 • 過去半世紀の間にみられた貿易パターンや経済活動の拠点の劇的な変化は、コンテナ化との強い関連性をうかがわせる。

地味すぎて、技術革新の研究者の注意を引くことさえできない。20世紀の半ば以降、経済や貿易に影響を与えた要因はあまりにも多く、その陰でコンテナの存在はずっと無視されてきた。

グローバリゼーションと物流

『物流はどう世界史を変えたのか』玉木俊明

インターネットの発展が、グローバリゼーションの大きな要因であると考える。それは間違いなく正しい。だがそれと同時に、物流がどのように発展していったのかという側面に目をむけなければ、グローバリゼーションの重要な一面を見落とすことになって物流しまう。世界中の商品が自宅に届くということは、国際的な物流システムの発展があったということである。   

したがって、グローバリゼーションの研究とは、物流システムの発展の研究と言い換えることもできよう。けれども物流の歴史の研究はあまり進んでいない。人々はどのようにして商品を入手したのかということはあまりわかっていないのである。

これまでの歴史研究は、いわば商品の開発に主眼を置いた研究であり、具体的な商品の入手経路の研究は、それと比較するとあまり進展していない。いままであまり注目されてこなかった物流にこそ、世界史の動因を読み解く鍵があるのではないだろうか。

環境変化とダイナミックケイパビリティ

菊澤 研宗「ダイナミック・ケイパビリティ」の経営学

現代 の よう な 人口 減少 時代 に 必要 な 企業 経営 とは、 環境 の 変化 を 感知 し、 機会 を 捕捉 し、 既存 の 知識 や 資産 や 資源 を 再 構成、 再利用、 そして 再 配置 し て、 付加価値 を 最大 化 する 経営 なので ある。 そして、 これ を 実現 する には、 ダイナミック・ケイパビリティ を 発揮 し て 既存 の 資産 や 資源 や 知識 を 再利用 し、 指揮者 の よう に オーケストレーション し て( こちら を 参照)、 正しい こと を 行う 経営 が 必要 なので ある。 •

かつて、 英国 では ペスト が 流行 し、 それ によって 人口 が 半減 し た と いう。 英国 オックスフォード大学 出身 で ゴールド マン・サックス 金融 調査 室長 だっ た デービッド・アトキンソン に よる と、 この とき、 英国 の 産業 に 大きな 変化 が 発生 し た と いう。 労働者 が 激減 し た ため、 英国 では 人手 が 必要 な 穀物 の 栽培 から、 人手 の いら ない 畜産 や 葡萄、 野菜、 果物、 麻 など といった 付加価値 の 高い 作物 の 栽培 へと 移行 し、 環境 変化 に 適応 し た と いう。  

同じ よう に、 日本 企業 も 既存 の 資源、 資産、 技術 を 再 配置、 再 構成、 再利用 し て 付加価値 を 高める ダイナミック・ケイパビリティ を 発揮 する。そうすれば、まじめな日本企業もパラダイムの不条理に陥ることはなく、日本経済も破たんしないだろう。

疫病と大航海時代

新型コロナはグローバル化の修正を迫っても、その動きを止めることはできないでしょう。

「長期の発展を経験した後のヨーロッパ経済は、14世紀後半から15世紀に かけて収縮の時代を迎えた。ペストの蔓延である。


1450年~1650年にかけての時代は、ヨーロッパにとっての変革期に相当 する。経済面で大きな発展を見せたこの200年は、ブローデルにしたがって、「ヨーロッパが栄光に輝く時代」であったと述べることがことができる。 経済の中でもとりわけ大きな変化を見せた部門が商業・流通部門であっ た。


東インド(アジア)や新大陸(アメリカ)といったこれまでにない遠方との貿 易が頻繁に行われるようになったこの時代、商業は質・量ともに大きな変 化を見せたのである。それゆえ「商業革命」という言葉でその変化の大きさを表現することもある。

大航海時代を迎えたヨーロッパは、自らを中 心とするグローバルな経済を誕生させ、「世界市場」を形成していく。」(『世界流通史』)

物流史の組織論からの考察

ポルトガルは、大航海時代を切り開く様々なイノベーションを創出したが、物流のグローバル化の面で組織的には、取引コストの大きいピア・グループのまま組織化されることなく、国力の衰退と共に、その役割を終えていった。

物流のグローバル化に大きな役割を果たしたオランダ東インド会社は、ピア・グループよりも組織化が進み単純階層組織になり取引コストが削減した。しかしながら組織の不条理により専制的なガバナンスが維持され、ガバナンスの民主化が進まず、取引コストの大きい組織は維持されたままであった。

イギリス東インド会社は、オランダ東インド会社よりも組織化が高度化し階層組織化も進み、ガバナンスの民主化も進んでおり、オランダ東インド会社より組織の取引コストは小さくなっていった。しかしながら、組織の不条理を生む独占的組織は社会的に受け入れられずに解散することとなった。

オランダ東インド会社、イギリス東インド会社は、約200年間継続したグローバルな会社であった。時代の外部環境に合わせて変化していったが、特権会社で国家、政治家、株主などの関与が深いため取引コストが極めて大きく、何度もあった変革の機会を組織の不条理で見送ることになり、変化に対応しきれずに消滅していった。

両会社から学ぶことは、取引コストを減らす重要性である。取引コストを減らすために、具体的にはどうすれば良いのか。菊澤の指摘がヒントとなる。

組織が絶えず非効率や不正を排除しながら改善していけば、改悪の不条理に陥ることはない。こうした組織は、絶えず未来に向かって進化する「開かれた組織」なのである。⁵¹⁾開かれた組織とは、外部からの批判をむしろこちら側から積極的に受け入れ、それをもとにして自ら変革する自律的な組織である。

組織の取引コストを減らすため、外部環境にあわせて自ら変革する自律的な開かれた組織を構築することは時代を問わず経営組織に求められることであろう。

イギリス東インド会社の伸長と衰退

18世紀後半にはインドの大飢饉や現地職員の不正蓄財などによりイギリス東インド会社の財政状況は危機的状況に陥る。イギリス政府の有力者にはイギリス東インド会社役員の友人や会社株主が多く、またイギリス東インド会社がイギリス政府の債権者であるなど、その一民間企業とはいえイギリス経済と密接に関連して切り離せない状況になっていた。

例えば、1700年前後にマドラス総督であったイエール(Elihu Yale)の事例がある。社員の不正を監督する立場にあったにもかかわらず自らの地位を利用して蓄財に励んだ。現地の評議会で尋問が行われイギリス本国にも報告がされたが、結局イエールの政治力でものをいったのか、厳しく罰せられることはなかった。イエール個人についてはエージェンシー理論の典型的なモラルハザードの問題であるが、組織的にはイギリス東インド会社全体合理性よりも、イエールを罰することに伴うその関係者たちが取引コストを避けようと組織の不条理であったといえる。こうした事例は独占貿易の組織体では解決されることなかったため会社への批判が続いたが、改革は行われず不条理な状態が続いた。

会社改革や解散など抜本策を実施するためには取引コストが非常に大きくなりすぎていたのである。イギリス政府は1773年規制法を成立させて、資金を貸し付けるととともに、イギリス東インド会社の運営に直接影響力を行使するようになる。

こうした状況下で1776年にアダム・スミスが『国富論』を出版した。「スミスの提唱する自由貿易という考え方は、やがて知識人や政治家の間で多数派を形成するようになり、政府の政策に取り入れられて19世紀前半には東インド会社の死命を制するようになる。」⁴⁹⁾「海外においてイギリス製の綿織物の需要が大きくなった。資本家の数が増え、彼らが政治的に大きな力を持つようになった。資本を投じてアジアとの貿易事業を始めたいと考える人々は、東インド会社だけが東インドとの貿易を独占している現状は不当だと批判を強め、自由貿易を求めた。自由貿易こそが国を富ませるというスミスの理論は、その強い追い風となった。会社が生まれた17世紀初めの時点では常識だった独占貿易という方法は、時代遅れとなっていたのである。」

産業革命で資本家が力を付けた時代に合っては市場取引を進めるべきであったところ、改革のための取引コストが大きく、経済的合理性より特権維持を目的に独占体制を維持され、時代に組織体制を合わせられなかった。18世紀には当時としては民主的と考えられた組織であったイギリス東インド会社も19世紀の自由化の時代では特権組織であり、時代の変化に対応できない組織となっていた。自由主義経済の勃興に対して組織が対応することができず、その歴史的役割を終えてゆく。

イギリス東インド会社の組織の変化

1698年に旧会社に対抗して「新東インド会社」が設立された。このとき国王ウィリアム3世は旧会社の特権を三年先に取り消すと通告していたが、1700年頃、旧会社の経営状態が改善されたため、1702年7月、両会社と国王との間で協定が成立し、1709年まで平等の立場で東インド貿易に参加することになる。新旧両東インド会社のそれぞれから等しい人数の委員を出し、この管理委員会が貿易を営むことになった。

ロンドン本社には、株主総会と取締役会のほかに取締役が担当する各種委員会があって、経営の実務を行っていた。インド現地には、ムンバイ、マドラス、コルカタに各管区長がおり、その下に各管区評議会、さらに現地にも各種委員会があった。ロンドン本社にはそれ以外に事務局があったが、インドの各管区にも事務局があり、何人かのスタッフが勤務していた。インド現地には、各管区の指揮下に各地方の従属商館がおかれていた。イギリス東インド会社は、「本国に本社がなくアジアに強力な中心拠点を持っていたオランダ東インド会社と対照的で、本国に安定し確立した本社機能があり、アジアにはバタビアに相当するような中心拠点がなかった。」

組織的にはオランダ東インド会社のように地域性の強い組織ではなく、機能別の多段階階層組織であり、中央集権的で効率的な組織であった。オランダ東インド会社のように垂直統合が進まず、市場を活用できた点で取引コスト削減が可能となり、効率的な組織を生む結果となったと考えられる。

ガバナンス構造はどうか。「合同会社では、新東インド会社の意見を入れて、大株主の支配を最初から制限し、株主は誰もが一人一票の投票権を持って総会に参加できるシステムをとった。近代的で民主的な会社運営を行うために、総会の地位強化も図った。1713年の総会では取締役会代表(議長)と副代表(副議長)を置くことに決められた。こうして誕生した「合同東インド会社」こそが、1858年まで存続したイギリス東インド会社である。」

 「人民評議会」といわれただけあって、株主総会には、イギリス人、フランス人、アメリカ人だれでも普通の市民であれば差別はなかった。宗教の差異も問題にされなかった。性の差異も関係なかった。東インド会社は株を買った人ならだれでも株主とよばれ、株主総会に出ることを許された。

 株主総会のもっとも重要な機能は、24人の取締役を選出することであった。合同東インド会社の経営にあたったのは、24人の取締役が構成する取締役会であった。17世紀中頃の改組を通じて、「全社員の有限責任制」の確立や「会社機関」の形成など、株式会社としての形態的特質を具備し、オランダ東インド会社に欠けていた「出資者総会」(株主総会)を備えた「民主型」株式会社へと大きな質的転換を果たした。

イギリス東インド会社の組織化

イギリス東インド会社は1600年に設立された。会社を設立したのはあくまでもロンドンの商人たちであり、国王はこれを認可したにすぎない。当時のイギリス王や政府が、自らこのような貿易会社をつくる意思はなかった。少なくとも当初会社を設立した資本家たちもこれを認可した国王も、武力による領土の獲得は考えていなかった。何よりもアジアの豊かな物産を取引する貿易によって利益を上げることがこの会社の究極の目標だった。

ただし、東インド会社の全構成員の出資を結合した会社企業の設立は取りやめられた。現実に払い込みを希望する者からなる個別会社を設立し、これが東インド会社の名の下で東インド貿易に携わっていた。個別会社制は1601年から1613年まで続き、一航海ごとに資金を集め、アジアに出かけて行った船が積み荷を積んで帰国した後、その輸入品を資本またはその輸入品販売代金を投資額に比例して株主に分配するという方法が取られた。イギリス東インド会社も時代によって組織形態は変わっていくが、当初はピア・グループと同じで、ポルトガル時代のものと変わらない。

当初は一航海ごとに元本も収益も含めたものが清算され、すべて株主に分配された。一航海ごとに清算していたのでは、すでに永続的な会社組織を整えて営業しているオランダ東インド会社に到底太刀打ちすることができない。そこで、複数航海を含んだ比較的永続的な合本企業が組織された。ただし、オランダと違って当時のイギリスでは大量の資金を集めることができず、恒久的な会社とすることはできなかった。当初は不安定であったが、のち大会社に発展するイギリス東インド会社の基礎はこうして築かれた。

 船主の権利は株券と同じで、一回の航海が終わると、別の希望者に譲渡されることも多かった。船長をはじめ船乗りは船主側が雇用し、東インド会社と船主が船の賃貸の期間、航海先の港、船荷の種類、違約の際の取り決めなどの契約を交わしたうえで、船は東インドへと向かった。この意味で、イギリス東インド会社は、国際商業に特化した純然たる貿易会社であり、海運業者ではなかった。フランス東インド会社は、少なくとも1730年以後はロリアンの造船所で建造した。デンマーク東インド会社もコペンハーゲンに造船所に持ち、スウェーデンとオーストリアの東インド会社は船を購入し所有した。つまり、船を自前で作らずに借りていたのは、イギリスの東インド会社だけだった。船を所有するか賃貸にするかという選択には一長一短があり、一方が他方より大きく勝っているというわけではなかった。

自由競争が基本の現在ならば、複数の造船業者、海運業者に競争させてもっとも低価格な業者と契約するのが合理的である。しかし、イギリス東インド会社は、会社の重役や株主の多くが造船業や海運業に投資していたため、少しでも高い金額で会社に自分の船を借りさせ、必ずしも価格競争が働かなかった。

オランダ東インド会社の衰退

 17世紀においては,オランダがヨーロッパ最大の経済大国であった。オランダは各州の力が強く、地方分権的というより,むしろ分裂的な国家であった。さらに,国家の経済への介入も少なかった。しかし他国は,オランダに対抗するために,国家が大きく経済に介入し、程度の差はあれ、国家指導型の経済発展をした。オランダをふくめ、ヨーロッパの大半の国では国家財政のかなりの部分を軍事費が占めるようになった。そしてオランダ以外の国では中央集権化が進んだ。²⁸⁾他国が保護主義政策をとり、中央集権化を進めると、オランダの政治制度は時代にそぐわなくなっていった。

オランダの国力は18世紀になると低下する。原因として人口減少と漁業の衰退がある。漁業の衰退の背景には、イギリス、スコットランド、デンマーク、ノルウェーなど他のヨーロッパ諸国との競争激化があった。漁業の不振はこれと密接に結びついていたバルト海の木材貿易や、ポルトガル、フランスなどとの塩の取引などにもたちまち影響を及ぼし、漁業やその加工業にたずさわっていた多数の人々の生活を脅かした。

「この傾向の原因および結果として、熟練した遠洋漁業に従事する者の急減があった。競争相手の漁業の経験に富むオランダ人漁夫を高給で引き抜いている事実もある。しかも、オランダにとって漁業は食料の確保だけではなく、遠洋航海のための人材養成の場でもあったから、漁夫の国外流出は取返しのつかない損失を意味していた。」

漁業での立ち遅れと同じ現象は、造船技術でもはっきりと現れた。16世紀にはロシアからピョートル大帝みずから習いに来たオランダの造船術も、新しい技術を開発できなかったために、18世紀後半に入ると、イギリスなどの造船所に太刀打ちできないようになる。地図作製術などについても同様である。17世紀にはオランダ人の方がイギリス人よりも航海・貿易に自信を持ち、進取の気象にも富んでいたが、18世紀の後半になると、両者の立場は完全に逆転する。³¹⁾技術上の優位性が落ちるなかでは、オランダ東インド会社の組織的な垂直統合はむしろ競争力を弱める原因となったと思われる。

「オランダの商業資本家達が自国の産業や海運に投資しないで、イギリスやフランスに投資する例が18世紀後半には頻繁にみられる。」オランダ東インド会社もこの間にアジアの地域間貿易に携わる船の数は大幅に減った。

一時期、「オランダ共和国」それ自体の政治改革と並行してオランダ東インド会社の会社機関にも主要出資者総会や監督を担う委員会の設置などある程度の「民主化」がはかられたこともあった。事なかれ主義が支配的であったオランダ東インド会社で、1792年ファン・ホーヘンドルプ (C.S. W.van Hogendorp)により自由主義に基づく会社の改革案を出されたが、十分な効果をあげることなく事実上立ち消えとなり、結果的に取締役団による会社経営の専制的支配が維持され、1795年の「オランダ共和国」の崩壊と運命を共にする形で、1799年の解散の時を迎えた。改革による取引コストの大きさから合理的に現状維持を判断した組織の不条理のため、市場化の環境変化に適応できず解散することとなった。

オランダ東インド会社の組織

「東インドとの貿易とは、誰もが簡単に参加できるほど簡単なものではなかった。堅実な商人や金融業者の多くは、リスクが大きく資金が長期間固定される東インド貿易には手を出さず、より安全で短期に資本を回収できるヨーロッパ域内の貿易に投資した。16世紀末に相次いで組織されたオランダの船隊の場合は、資金に余裕があり高い利益を期待する商人や金融業者が、アムステルダムをはじめとする年ごとに共同で出資した事業だった。16世紀末の段階で、東方との貿易に意欲を持ち、それを実行できるだけの財力を有していたのは、オランダのいくつかの都市とロンドンの資本家だけだった。」

オランダでは1595年から1602年にかけてアジアと貿易する会社が14できた。諸会社が競い合ってインド洋に船団を派遣し、胡椒・香料を求めたので、現地での買い入れ価格は上昇し、本国での販売価格は下落するなど共倒れになる危険性があった。

「政治家の介入もあり、1602年3月連合東インド会社が成立した。1600年に発足したイギリス東インド会社とくらべると、10倍以上にあたる約650万ギルダーの資本金を集めた世界最初の株式会社であった。1799年まで約200年間存続した永続的な海商企業となる。」²⁰⁾この会社の成立がポルトガルと大きな違いを生むこととなる。

 オランダ東インド会社は出資額を限度とする有限責任制であったが、株主総会が設置されず、経理内容も公開されずに配当も不規則で恣意的であるなど、現代企業と比較するとガバナンスが不十分であった。また、オランダ東インド会社はオランダという国に属しながら、いちいち政府の許可を得ることなく海外で要塞を建設し、総督を任命し、兵士を雇用することができるなど準国家といってもよい存在であった。ただし、東インド会社は、政府の特許状を得ているが、あくまでも民間の会社である。オランダ政府が設立した国営企業ではなかった。会社の船は大砲を積んではいるが、オランダ海軍の船ではない。オランダという国とオランダ東インド会社は一体ではない。

組織的には、6つの会社が合同してできたオランダ東インド会社は複雑な組織であった。オランダ東インド会社には本社はなく、都市に拠点を置くカーメルと呼ばれる6つの支部があった。それぞれの支部は造船所を持ち、独自に艤装を行って船を東インドへ派遣した。17人会の下に財務、監査、管財、艤装、通信などの委員会が置かれた。委員会の主な仕事は、東インドへ派遣するカーメルごとの船の隻数と社員、船員、水夫の人数の決定、東インドへ送る商品の種類と数の決定、東インドへの注文品の種類と数の決定、東インドから受け取った商品の入札競売、出資者への配当額の決定などだった。

会社経営全般については、各支部の代表60人からなる取締役会が責任を持った。ポルトガルのピア・グループではなく、地域別の単純層組織となることで、取引コストを削減することができたと考えられる。

 オランダ東インド会社は、イギリス東インド会社とは異なり、船を建造所有して船員の雇用も行い、国際貿易のほかに造船業、海運業も行う複合型の大企業だった。²³⁾垂直統合が進んだ組織であった。当時のオランダは造船業、海運業が発達しており、イギリスなど他国へ船舶を供給する側であった。他の東インド会社でもオランダ東インド会社のように垂直統合を進めるのが一般的で、イギリス東インド会社だけが例外であった。

オランダ東インド会社はいわゆる専制型株式会社であった。オランダ東インド会社の目的はいうまでもなく東インド貿易の独占にあり、連邦議会から賦与された「特許状」に基づいて、東インド地域、つまり、喜望峰からマゼラン海峡に至る地域との貿易独占権と、当該地域における国家主権(同盟や条約を締結する権利や、軍事・警察・司法上の権限)の代行を容認された会社企業であった。オランダ東インド会社自体が、当時の「オランダ共和国」の政治的・経済的支配層(特にアムステルダムを中心とした都市の少数の大商業資本家門閥=都市貴族)と人的に密接に絡み合った、きわめて例外的かつ政治的な特権会社、いわば「国家内の国家」とでもいうべき存在だった。

私貿易で私腹を肥やす事態が後を絶たたないことに手を焼いていた2回目の着任であった総督クーン(Jan Pieterszoon Coen)は、1625年当時の民主主義勢力の政治的潮流に沿って、本心とは異なり、自由貿易推進案を連邦議会に送るなどした。議会は可否を検討したが、結局、特許状によって設立されたオランダ東インド会社の趣旨と矛盾するという理由でこの案は破棄された。

これ以降、「オランダ東インド会社の経営の危機が叫ばれる時には、必ず独占貿易が問題にされ、自由貿易を望む声が常によみがえる」ことから考えると、設立の趣旨に反して会社を変革させるための取引コストの大きさが改革を阻む不条理が存在した。

オランダの成長と東インド会社の設立

「アムステルダムが世界市場の中心となった17世紀はオランダの世紀と呼ばれる。」

オランダは鰊漁を中心に漁業を発展させることができた。鰊漁は、漁船の建造をはじめ各種手工業、商業の発展を促し、操船技術の向上にも寄与して海運業発展の土台となった。鰊漁は、「オランダ発展の母」と認められるほど、オランダにとって重要な産業部門だった。農業には適さない低湿地が多かったため、多くのオランダ人が早くから漁業や海運業などを営んで海に進出していた。

 海運・商業を発展させたオランダは、活動領域を北海から東のバルト海へと拡大させていった。バルト海から輸入される穀物、さらには海運資材をヨーロッパ各地に運搬する海運業で、巨額の利益をえて、ヨーロッパの物流の中心になった。

この時代、オランダはヨーロッパの対外進出に必要な海運資材を、さまざまな国に輸送した。オランダの物流システムがなければ、ヨーロッパはヨーロッパ外世界へ進出できなかった。ヨーロッパの世界支配は、18世紀末までは、オランダの物流システムに大きく依存していたのである。

 海運業者の中には、ポルトガルのリスボンに赴いて胡椒や香辛料など東インドの品物を仕入れ、それをバルト海沿岸の諸地方まで輸送する者もいた。しかし、オランダとハプスブルグ家が戦争状態に入ると、オランダはイベリア半島の港の町への寄港を差し止められた。そのため、オランダ人は自力で東インドへの航海を目指すこととなる。

蒸気船の発達による世界市場の一体化(3)

東洋航路への進出と国家の関わり

大西洋航路以外では、1840年代にペニンシュラ・アンド・オリエンタル蒸気船会社(Peninsular and Oriental Steam Navigation Co.:P&O)が東洋航路において、ロイヤルメール蒸気郵便船会社が西インド諸島航路において、パシフィック蒸気船会社が南アメリカ航路においてそれぞれ郵便補助金を得て定期航路を開設した。これらの定期航路はイギリス本国と植民地間の郵便輸送を迅速化することによって植民地支配を一層強固なものにした。また帆船よりも軍艦としてはるかに有用な蒸気船隊を育成・強化しようとする政治的、軍事的要請に基づいて、それぞれの航路において開設された最初の定期航路であった。

P&Oは、1843年にシンガポールまで航路を延ばしていたが、その先にある中国は1757年に対外貿易を広東のみに限定していたため、近づけなかった。P&Oの航路が中国にまで延びるためには、アヘン戦争にイギリスが勝利し、1842年の南京条約によって、5港の開港と香港租借をイギリスが勝ち取るまで待たなければならなかった。

1858年に結ばれたP&Oと政府との新しい郵便契約では、それまでは月一度だったスエズ以東の郵便物の輸送を、翌年から隔週にすることが決められた。このようにして、蒸気船による郵便とヒトの移動が、これまでにないスピードと定期性をもって極東にまで伸びたのである。

大西洋航路でも郵便補助金がなければ、郵便輸送というコミュニケーションシステムは維持することはできなかったが、東洋航路についても同様であった。さらに東洋航路における蒸気船によるコミュニケーション網の維持のためには、イギリスから東方の各地に、石炭補給基地や船の修理工場など巨大なシステムの支えがあって、初めて可能であり、そのシステムを維持するには軍事力が必要であった。イギリスの蒸気船航路網と石炭補給基地は、イギリスの石炭補給のシステムの一応の完成の様子を示しているが、蒸気船が東方へゆくためには、どれだけ膨大なシステムを必要としていたかを雄弁に物語っている。

P&Oについては、郵便の補助金と引き替えにイギリス海軍のコントロール下に置かれ、いざというときは軍務に服する義務があり、船の構造についても海軍が監督しており、純粋な私企業とは言えなかった。

その後、イギリスを世界最大の経済大国にし、パクス・ブリタニカを作り上げてゆくが、原動力となったのは蒸気船により世界の商品を輸送する海運業であった。

蒸気船の発達による世界市場の一体化(2)

蒸気船での技術革新の進展  

1830年代の北大西洋航路における蒸気船と帆船の競争は、蒸気船の技術的発展に大きく寄与することになった。

技術的な困難を克服して外航航路に参入したのに続き、グレート・ウェスタン蒸気船会社によって1843年世界初の鉄製スクリュー船グレート・ブリテン号が建造された。コメット号(1812年)に始まる木造外輪船の時代から鉄製スクリュー船の時代への移行の端緒である。スクリュー船は従来の木造外輪船に比べて著しく経済的であった。また、鉄鋼船は木造船に比べて船体重量を約1/4削減することができ、鉄製船は浮力を減ずることなく木造船よりも多量の積み荷を積載可能であった。さらに鉄材の使用によって大型船の建造が可能となった。

外輪はその構造上重量が大きいだけでなく、容積も大きく船舶の重要部分を占めるために船腹の利用効率を著しく低下させ、外輪船では載貨重量によって外輪の推進効率が著しく減じられることがあった。スクリュー・プロペラがこれらの問題を解決して蒸気船の輸送能力を著しく高めた。ただし、スクリュー・プロペラは振動を生ずるために木造船には不向きで、鉄製船において初めて有効に利用されることができたのである。

こうした鉄製スクリュー船における便益にもかかわらずグレート・ウェスタン蒸気船会社は1846年に運航を停止した。アメリカ定期帆船に対しては鉄製スクリュー船で競争に十分対抗することが可能であり、ほかの2社の蒸気船よりも長く運航を続けていたが、郵便補助金を受けて運航されるキュナード・ラインの蒸気船との競争には対抗できなかった。

蒸気船の発達による世界市場の一体化(1)

イギリスの状況 

1830年代、イギリスとアメリカ間の大西洋定期航路ではアメリカ定期帆船の全盛期であった。アメリカ定期帆船がスピードを重視した造船技術に基づいて建造された新式の帆船であったのに対して、イギリスの帆船はスピードを全く無視した旧式の老朽帆船であった。1830年代は北大西洋航路における郵便物、旅客および高級貨物の輸送をアメリカ定期帆船が寡占していた。背景には、1773年に制定されたイギリス商船における船舶重量測定Builder`s Old Measurementが直接的、間接的に、イギリスにおける造船設計の進歩を結果として著しく阻害したこともあった。

しかし、1807年に実用的な蒸気船が発明されて以降、蒸気船はイギリス、アメリカなど世界各国の国内輸送で積極的に活用され、物流システムを大きく変えてゆく。蒸気船と比較してスピードの点ではさほど劣らないとしても、航海の規則性では帆船は蒸気船に著しく劣ったため、蒸気船は長距離航海において帆船に取って代わり、航路の範囲を大きく延ばした。

イギリスで蒸気機関が発明されたが、背景にはイギリスの特殊事情がある。大航海時代を迎えて大量の船舶をつくるために木材不足となったため、建築にはレンガや石材を使用し、暖房や煮炊きなどの民生用の燃料には、世界に先駆けて石炭を利用するようになっていた。石炭を大量に掘り出すために炭鉱は深くなり、その排水のために馬がポンプの動力として使われたため飼料代が高騰した。安い石炭と高い飼料という構造がイギリスをいち早く蒸気機関へと向かわせたのである。また、発明するエンジニアを支える資本家の存在、蒸気機関の材料となる鉄鋼を生む製鉄技術、精密加工する工作技術、エンジニアを守る特許制度、社会的展開のための不可欠な株式会社制度なども整っていた。現代に通じるような自動機械が出現したのは18世紀のイギリスであるが、それは偶然ではなく、安くてより良い製品を望む消費者の要請に応えるために、鉄鋼製品や工作機械といった周辺機器の発達に、新たな知識を組み合わせてみようという企業家たちの試行錯誤の結果であった。

蒸気船は、イギリスではヨーロッパ大陸やアイルランドなどとの国内、中距離の航海を中心に発達してきたため、波が荒く長距離の航海を要する外洋へ乗り出すことには、様々な技術的限界があった。一つには甲板の水密性を確保できないこと、更に大きな問題は、蒸気機関の熱効率が悪かったので、長距離の汽走に必要な量の石炭を積載できないことであった。石炭をいっぱい詰め込めば、乗客や荷物のためのスペースが確保できないからである。この課題を克服するためには、蒸気機関の燃料効率を上げるとともに、船を大きくし、船に積み込まれる石炭の相対的比率を下げる必要があった。

こうした状況下、1838年イギリスで蒸気船会社が3社設立され、大西洋横断に挑戦した。背景にはイギリス政府からの郵便補助金獲得競争があった。多くの汽船会社が輸送品として目をつけたのが、かさらばないで高価な積荷である郵便物であった。当時イギリスでは、郵便物は官営の帆船郵便船で運ばれることになっていた。1833年には郵政長官が補助金をだして蒸気船会社を積極的に育成する方針へ転換した。補助金を出す代わりに、軍事目的に転用可能なように、船の性能などに海軍が注文を付けられるようにしたのである。この政策の変更によって、蒸気船は郵便蒸気船として活路を見出していくことになる。

1840年王立イギリス・北アメリカ郵便会社、通称キュナード・ラインも設立された。最終的に郵便補助金を獲得したのはこのキュナード・ラインであった。1848年頃にはアメリカ定期帆船もキュナード・ラインに押されて郵便物と旅客の輸送を徐々に奪われた。定期船市場おいて要求される速力と規則性がいずれにおいても帆船は蒸気船に劣っていたためである。リバプール・ニューヨーク間の定期航路の場合、西航航海では帆船の場合31~34日かかるところ蒸気船では17~18日であった。帆船による航海の不安定さとくらべると、定期蒸気船の長所は明らかで、安定していて、速かった。

一方、郵便補助金が獲得できなかったイギリス蒸気船会社3社は、1848年までに破産・解散・運航停止に追い込まれた。イギリス蒸気船会社3社がアメリカ定期帆船会社との競争に敗れて破産、運航停止を余儀なくされたのは、当時の木造外輪船という技術水準の蒸気船であれば技術的にも経済的にも定期航路の開設がある程度可能ではあったが、木造外輪船では激しい競争、特に運賃戦に耐えるほどの収益性を確保できなかったからである。蒸気船は確かに速力や規則性において帆船に勝っていたが、帆船に比べて建造費が著しく高価で、また航海にあたっては多量の燃料炭をつみこまなければならず、船舶の重量に比べて極めて輸送コストが割高であった。

キュナード・ラインが一人勝ち得たのはイギリス政府の郵便補助金が帆船に対する運航差額補助金としての性格をもって支給されていたからであった。当時、技術的に優れた蒸気船による物流ビジネスも国家の補助なしには成り立たなかったのである。