取引コスト理論と組織デザイン

市場に代わる最もシンプルな組織は、ピア・グループである。ピア・グループとは仲間組織のことであり、上下の階層がなく、直接的な監督者もいない単純な平面的な組織となる。

ピア・グループが巨大化すると、メンバーは相互に他のメンバーの行動を十分把握できなくなり、統治制度としての相互監視システムや相互調整メカニズムが十分働かず、機会主義的行動が出現する。巨大化したピア・グループでは、資源は非効率に配分されることになる。この問題の解決のための一つの手段が単純階層組織である。単純階層組織では情報は1人の管理者から各メンバーに伝えられるため、情報伝達をめぐる取引コストは数学的に大幅に節約される。意思決定に必要な時間に関しても、ピア・グループよりも単純階層組織の方が短いので、情報をめぐる取引コストも節約される。

しかし組織が巨大化すると、管理者は限定合理的なので、1人の管理者によってすべてのメンバーを監視することが非常に難しくなる。メンバーの機会主義的行動が出現し、監視・調整するための組織内取引コストは極めて高くなる。組織内取引コストを削減するために、階層が2層以上ある多段階階層組織構造が新しいガバナンスとして展開される。この組織構造によって、組織メンバーはより効率的に管理され、組織内取引コストは削減されることになる。

取引コスト理論

取引コスト理論はコース(Ronald H. Coase)により生み出され、ウィリアムソン(O. E. Williamson) によって精緻化された。

「人間の合理性は限定されており、人間はすきがあればたとえ悪徳的であっても自己利益を追求する機会主義的な存在となる。このような限定合理的な人間世界では、市場取引する場合、互いに取引を有利にすすめようと駆け引きが起こるので、取引上の無駄、つまり取引コストが発生する。取引コストが小さい場合には市場取引は続けられるが、このコストがあまりにも大きい場合には、市場取引に代わって組織が発生してくことになる。」

物流史の組織論からの考察

ポルトガルは、大航海時代を切り開く様々なイノベーションを創出したが、物流のグローバル化の面で組織的には、取引コストの大きいピア・グループのまま組織化されることなく、国力の衰退と共に、その役割を終えていった。

物流のグローバル化に大きな役割を果たしたオランダ東インド会社は、ピア・グループよりも組織化が進み単純階層組織になり取引コストが削減した。しかしながら組織の不条理により専制的なガバナンスが維持され、ガバナンスの民主化が進まず、取引コストの大きい組織は維持されたままであった。

イギリス東インド会社は、オランダ東インド会社よりも組織化が高度化し階層組織化も進み、ガバナンスの民主化も進んでおり、オランダ東インド会社より組織の取引コストは小さくなっていった。しかしながら、組織の不条理を生む独占的組織は社会的に受け入れられずに解散することとなった。

オランダ東インド会社、イギリス東インド会社は、約200年間継続したグローバルな会社であった。時代の外部環境に合わせて変化していったが、特権会社で国家、政治家、株主などの関与が深いため取引コストが極めて大きく、何度もあった変革の機会を組織の不条理で見送ることになり、変化に対応しきれずに消滅していった。

両会社から学ぶことは、取引コストを減らす重要性である。取引コストを減らすために、具体的にはどうすれば良いのか。菊澤の指摘がヒントとなる。

組織が絶えず非効率や不正を排除しながら改善していけば、改悪の不条理に陥ることはない。こうした組織は、絶えず未来に向かって進化する「開かれた組織」なのである。⁵¹⁾開かれた組織とは、外部からの批判をむしろこちら側から積極的に受け入れ、それをもとにして自ら変革する自律的な組織である。

組織の取引コストを減らすため、外部環境にあわせて自ら変革する自律的な開かれた組織を構築することは時代を問わず経営組織に求められることであろう。

組織の不条理

 人間は組織を構築することで取引コストをある程度節約できる。しかし、組織内部の取引コストが高くなると、社会的には非効率で非倫理的でも、組織内で何もしない方が効率的になる状況に陥ってしまう、人間組織が合理的に失敗する不条理が発生する。不条理には3つのパターンがある。

・全体合理性と個別合理性が一致しないとき、個々人や個別組織は全体合理性を捨てて個別合理性を追求し、その結果、全体が非効率的となって失敗するという不条理。

・正当性(倫理性)と効率性が一致しないとき、個々人や個別組織は正当性を捨て効率性を追求し、その結果、不正となって失敗するという不条理。

・長期的帰結と短期的帰結が一致しないとき、個々人や個別組織は長期的帰結を捨て短期的帰結を追求し、その結果、長期的に失敗するという不条理。

 いずれの不条理も人間の非合理性が失敗を生み出すのではなく、むしろ人間の合理性こそが人間を失敗に導くのである。

イギリス東インド会社の伸長と衰退

18世紀後半にはインドの大飢饉や現地職員の不正蓄財などによりイギリス東インド会社の財政状況は危機的状況に陥る。イギリス政府の有力者にはイギリス東インド会社役員の友人や会社株主が多く、またイギリス東インド会社がイギリス政府の債権者であるなど、その一民間企業とはいえイギリス経済と密接に関連して切り離せない状況になっていた。

例えば、1700年前後にマドラス総督であったイエール(Elihu Yale)の事例がある。社員の不正を監督する立場にあったにもかかわらず自らの地位を利用して蓄財に励んだ。現地の評議会で尋問が行われイギリス本国にも報告がされたが、結局イエールの政治力でものをいったのか、厳しく罰せられることはなかった。イエール個人についてはエージェンシー理論の典型的なモラルハザードの問題であるが、組織的にはイギリス東インド会社全体合理性よりも、イエールを罰することに伴うその関係者たちが取引コストを避けようと組織の不条理であったといえる。こうした事例は独占貿易の組織体では解決されることなかったため会社への批判が続いたが、改革は行われず不条理な状態が続いた。

会社改革や解散など抜本策を実施するためには取引コストが非常に大きくなりすぎていたのである。イギリス政府は1773年規制法を成立させて、資金を貸し付けるととともに、イギリス東インド会社の運営に直接影響力を行使するようになる。

こうした状況下で1776年にアダム・スミスが『国富論』を出版した。「スミスの提唱する自由貿易という考え方は、やがて知識人や政治家の間で多数派を形成するようになり、政府の政策に取り入れられて19世紀前半には東インド会社の死命を制するようになる。」⁴⁹⁾「海外においてイギリス製の綿織物の需要が大きくなった。資本家の数が増え、彼らが政治的に大きな力を持つようになった。資本を投じてアジアとの貿易事業を始めたいと考える人々は、東インド会社だけが東インドとの貿易を独占している現状は不当だと批判を強め、自由貿易を求めた。自由貿易こそが国を富ませるというスミスの理論は、その強い追い風となった。会社が生まれた17世紀初めの時点では常識だった独占貿易という方法は、時代遅れとなっていたのである。」

産業革命で資本家が力を付けた時代に合っては市場取引を進めるべきであったところ、改革のための取引コストが大きく、経済的合理性より特権維持を目的に独占体制を維持され、時代に組織体制を合わせられなかった。18世紀には当時としては民主的と考えられた組織であったイギリス東インド会社も19世紀の自由化の時代では特権組織であり、時代の変化に対応できない組織となっていた。自由主義経済の勃興に対して組織が対応することができず、その歴史的役割を終えてゆく。

イギリス東インド会社の組織の変化

1698年に旧会社に対抗して「新東インド会社」が設立された。このとき国王ウィリアム3世は旧会社の特権を三年先に取り消すと通告していたが、1700年頃、旧会社の経営状態が改善されたため、1702年7月、両会社と国王との間で協定が成立し、1709年まで平等の立場で東インド貿易に参加することになる。新旧両東インド会社のそれぞれから等しい人数の委員を出し、この管理委員会が貿易を営むことになった。

ロンドン本社には、株主総会と取締役会のほかに取締役が担当する各種委員会があって、経営の実務を行っていた。インド現地には、ムンバイ、マドラス、コルカタに各管区長がおり、その下に各管区評議会、さらに現地にも各種委員会があった。ロンドン本社にはそれ以外に事務局があったが、インドの各管区にも事務局があり、何人かのスタッフが勤務していた。インド現地には、各管区の指揮下に各地方の従属商館がおかれていた。イギリス東インド会社は、「本国に本社がなくアジアに強力な中心拠点を持っていたオランダ東インド会社と対照的で、本国に安定し確立した本社機能があり、アジアにはバタビアに相当するような中心拠点がなかった。」

組織的にはオランダ東インド会社のように地域性の強い組織ではなく、機能別の多段階階層組織であり、中央集権的で効率的な組織であった。オランダ東インド会社のように垂直統合が進まず、市場を活用できた点で取引コスト削減が可能となり、効率的な組織を生む結果となったと考えられる。

ガバナンス構造はどうか。「合同会社では、新東インド会社の意見を入れて、大株主の支配を最初から制限し、株主は誰もが一人一票の投票権を持って総会に参加できるシステムをとった。近代的で民主的な会社運営を行うために、総会の地位強化も図った。1713年の総会では取締役会代表(議長)と副代表(副議長)を置くことに決められた。こうして誕生した「合同東インド会社」こそが、1858年まで存続したイギリス東インド会社である。」

 「人民評議会」といわれただけあって、株主総会には、イギリス人、フランス人、アメリカ人だれでも普通の市民であれば差別はなかった。宗教の差異も問題にされなかった。性の差異も関係なかった。東インド会社は株を買った人ならだれでも株主とよばれ、株主総会に出ることを許された。

 株主総会のもっとも重要な機能は、24人の取締役を選出することであった。合同東インド会社の経営にあたったのは、24人の取締役が構成する取締役会であった。17世紀中頃の改組を通じて、「全社員の有限責任制」の確立や「会社機関」の形成など、株式会社としての形態的特質を具備し、オランダ東インド会社に欠けていた「出資者総会」(株主総会)を備えた「民主型」株式会社へと大きな質的転換を果たした。

イギリス東インド会社の組織化

イギリス東インド会社は1600年に設立された。会社を設立したのはあくまでもロンドンの商人たちであり、国王はこれを認可したにすぎない。当時のイギリス王や政府が、自らこのような貿易会社をつくる意思はなかった。少なくとも当初会社を設立した資本家たちもこれを認可した国王も、武力による領土の獲得は考えていなかった。何よりもアジアの豊かな物産を取引する貿易によって利益を上げることがこの会社の究極の目標だった。

ただし、東インド会社の全構成員の出資を結合した会社企業の設立は取りやめられた。現実に払い込みを希望する者からなる個別会社を設立し、これが東インド会社の名の下で東インド貿易に携わっていた。個別会社制は1601年から1613年まで続き、一航海ごとに資金を集め、アジアに出かけて行った船が積み荷を積んで帰国した後、その輸入品を資本またはその輸入品販売代金を投資額に比例して株主に分配するという方法が取られた。イギリス東インド会社も時代によって組織形態は変わっていくが、当初はピア・グループと同じで、ポルトガル時代のものと変わらない。

当初は一航海ごとに元本も収益も含めたものが清算され、すべて株主に分配された。一航海ごとに清算していたのでは、すでに永続的な会社組織を整えて営業しているオランダ東インド会社に到底太刀打ちすることができない。そこで、複数航海を含んだ比較的永続的な合本企業が組織された。ただし、オランダと違って当時のイギリスでは大量の資金を集めることができず、恒久的な会社とすることはできなかった。当初は不安定であったが、のち大会社に発展するイギリス東インド会社の基礎はこうして築かれた。

 船主の権利は株券と同じで、一回の航海が終わると、別の希望者に譲渡されることも多かった。船長をはじめ船乗りは船主側が雇用し、東インド会社と船主が船の賃貸の期間、航海先の港、船荷の種類、違約の際の取り決めなどの契約を交わしたうえで、船は東インドへと向かった。この意味で、イギリス東インド会社は、国際商業に特化した純然たる貿易会社であり、海運業者ではなかった。フランス東インド会社は、少なくとも1730年以後はロリアンの造船所で建造した。デンマーク東インド会社もコペンハーゲンに造船所に持ち、スウェーデンとオーストリアの東インド会社は船を購入し所有した。つまり、船を自前で作らずに借りていたのは、イギリスの東インド会社だけだった。船を所有するか賃貸にするかという選択には一長一短があり、一方が他方より大きく勝っているというわけではなかった。

自由競争が基本の現在ならば、複数の造船業者、海運業者に競争させてもっとも低価格な業者と契約するのが合理的である。しかし、イギリス東インド会社は、会社の重役や株主の多くが造船業や海運業に投資していたため、少しでも高い金額で会社に自分の船を借りさせ、必ずしも価格競争が働かなかった。