蒸気船の発達による世界市場の一体化(3)

東洋航路への進出と国家の関わり

大西洋航路以外では、1840年代にペニンシュラ・アンド・オリエンタル蒸気船会社(Peninsular and Oriental Steam Navigation Co.:P&O)が東洋航路において、ロイヤルメール蒸気郵便船会社が西インド諸島航路において、パシフィック蒸気船会社が南アメリカ航路においてそれぞれ郵便補助金を得て定期航路を開設した。これらの定期航路はイギリス本国と植民地間の郵便輸送を迅速化することによって植民地支配を一層強固なものにした。また帆船よりも軍艦としてはるかに有用な蒸気船隊を育成・強化しようとする政治的、軍事的要請に基づいて、それぞれの航路において開設された最初の定期航路であった。

P&Oは、1843年にシンガポールまで航路を延ばしていたが、その先にある中国は1757年に対外貿易を広東のみに限定していたため、近づけなかった。P&Oの航路が中国にまで延びるためには、アヘン戦争にイギリスが勝利し、1842年の南京条約によって、5港の開港と香港租借をイギリスが勝ち取るまで待たなければならなかった。

1858年に結ばれたP&Oと政府との新しい郵便契約では、それまでは月一度だったスエズ以東の郵便物の輸送を、翌年から隔週にすることが決められた。このようにして、蒸気船による郵便とヒトの移動が、これまでにないスピードと定期性をもって極東にまで伸びたのである。

大西洋航路でも郵便補助金がなければ、郵便輸送というコミュニケーションシステムは維持することはできなかったが、東洋航路についても同様であった。さらに東洋航路における蒸気船によるコミュニケーション網の維持のためには、イギリスから東方の各地に、石炭補給基地や船の修理工場など巨大なシステムの支えがあって、初めて可能であり、そのシステムを維持するには軍事力が必要であった。イギリスの蒸気船航路網と石炭補給基地は、イギリスの石炭補給のシステムの一応の完成の様子を示しているが、蒸気船が東方へゆくためには、どれだけ膨大なシステムを必要としていたかを雄弁に物語っている。

P&Oについては、郵便の補助金と引き替えにイギリス海軍のコントロール下に置かれ、いざというときは軍務に服する義務があり、船の構造についても海軍が監督しており、純粋な私企業とは言えなかった。

その後、イギリスを世界最大の経済大国にし、パクス・ブリタニカを作り上げてゆくが、原動力となったのは蒸気船により世界の商品を輸送する海運業であった。

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